マネーの日本芸能史 Vol.2
取り付け騒ぎに遭った能役者
「取り付け騒ぎ」というのは、金融不安から、預金を引き出そうという人が銀行に殺到し、大騒ぎになる事だ。日本では、昭和2(1927)年に、大蔵大臣の帝国議会での失言に端を発した渡辺銀行の取り付け騒ぎが有名だ。
まだ銀行制度など、影も形も無かった幕末、すでに「取り付け騒ぎ」は起こっていた。その主人公は、能の金春座を率いていた太夫の金春広成だ。
金春座は、能という芸能が登場した南北朝時代から奈良で活動していた「大和猿楽四座」の一つ・円満井座が源流。やがて金春座は、晩年になって能に狂ったように能を愛好した豊臣秀吉に重用される。江戸時代に入ると、観世・宝生・金剛・喜多座と共に幕府のお抱えとなる。
幕府お抱えの座の役者には、扶持米や配当米が与えられたが、金春座の有力な役者には、その他に奈良に「知行所」と言われる所領もあった。広成も、三百石の知行所があり、千坪以上の大きな屋敷を構えていた。金春座が、豊臣秀吉に贔屓された時代の先例を踏襲したためだった。
広成は、もう一つ、他の役者には無い大きな特権を持っていた。藩札の発行だ。藩札は、幕府が発行する小判・銀貨・銭とは別に、各藩の領地内だけで通用する紙幣。奈良では、春日興福寺などにも発行が認められていた。金春大夫が発行する藩札は「金春札」と呼ばれ、事実上、知行所の中に限らず、広く奈良一円で流通していた。
藩札は、金や銀に交換できるのが原則。通常、交換する人はいないが、政情・社会不安が起こったり、発行元に対する信用が著しく低下すると、金や銀に交換しようとする人が殺到することになる。銀行への取り付け騒ぎと同じだ。
幕末の混乱の中、広成が奈良に戻っていた慶応4(1868)年1月3日、大阪から京へ向かって進軍していた幕府軍が、薩摩軍と衝突し、「鳥羽・伏見の戦い」が起こる。敗れた幕府軍が落ち延びて来て、奈良は騒然となり、「金春札」を銀に交換しようとする人が、屋敷に押し寄せた。
この時の様子を目撃した金春座の小鼓方・大蔵繁次郎は、次のように証言している。「表門を鎖して人を入れず、密かに窃かに裏の漢国寺の念仏寺といふ旦那寺へ、大切な品物を塀越しに送り、大夫初め家族の者も共に寺内に隠れ、然る後門を開いて人を入れたのでしたが、其の時の有様といったら実に狼藉極ったことで、蔵の戸を開いて残してある道具類を取り出すやら、中には米を取り出して炊き出すもあり、舞台上の上で大火鉢に火を起し鏡餅を割って焼いて食っているもあり、大夫を出せよと叫んでいるもあり、浮かと出たら叩き殺されもしなねぬ勢いでしから、一時は忍び隠れていて、少し鎮まった後、金になるような品物は多く大阪へ出して売払ひ、銀札の両替の代としました」(『 能楽盛衰記 下』)。
明治4(1872)年の廃藩置県に伴い、藩札は廃止され、順次、新政府が発行する新たな紙幣・貨幣と交換されて行った。広成も知行地を没収され、「金春札」は効力を失った。
(©︎Masayuki Nakamura)
中村雅之(なかむら まさゆき)
1959年、北海道生まれ。法政大学大学院日本史学専攻修士課程修了。横浜能楽堂芸術監督、明治大学大学院兼任講師(アートマネージメント)。能・狂言、琉球芸能を中心に、幅広く伝統芸能のプロデュースを手掛ける。手掛けた公演が、文化庁芸術祭で大賞・優秀賞を受賞。長年にわたる劇場経営・プロデュースの経験を基礎に、芸能社会史の観点から「芸能とお金」の関係について研究する。講演、脚本・演出、作詞、執筆・監修まで、活動は多岐にわたる。
『英訳付き 1冊でわかる日本の古典芸能』(淡交社)、『これで眠くならない!能の名曲60選』、(誠文堂新光社)、『野村萬斎‐なぜ彼は一人勝ちなのか』(新潮社)、『教養としての能楽史』『空白の團十郎-十代目とその家族』(筑摩書房)など著書多数。


