マネーの日本芸能史 Vol.1
600年前の「VIP席」
ここ数年、日本各地の祭りで、超高額の「VIP席」が設けられるようになり、話題になっている。中には、シャンパンや豪華な食事が付いた 100万円もする席さえある。それに比べれば控えめだが、1150年余りの歴史を誇る京都の祇園祭でも、従来の手頃な有料の観覧席に加え、40万円のする「プレミアム観覧席」が登場した。
観覧席が設けられているのは、祇園祭が最高潮に達する「山鉾巡行」。優雅な囃子の音色が流れる中、巨大な山や鉾が、列をなして都大路を進む。最も格式の高い「長刀鉾」は、屋根の上に据えられた長刀まで含めると約25メートルの高さ。5階建てのビルにも匹敵する。
山や鉾は、「懸装品」と呼ばれる精巧な作りの木彫・金具、能や伝説・神話に題材を取った人形、豪華絢爛な織物で飾り立てられている。織物の中には、16世紀にベルギーで作られたタペストリーを流用した物もあり、国の重要文化財に指定されている。そのため、山鉾は、「動く美術品」とも言われる。
巡行は、京都のど真ん中を進む。「前祭」と「後祭」に分かれていて、参加する山と鉾は二手に分かれる。「前祭」は、賑やかな四条通りを西から東へ向かい、河原町を北上し、最も幅が広い御池通りで折れ西に進む。「後祭」は逆になる。観覧席は、御池通り沿いにスタンドを組んで設けられている。
山や鉾が豪華になったのは室町時代。「町衆」と呼ばれた町人たちが豊かになる中で、町ごとに競い合いように作った。巡行は、京都の文化的・経済的な繁栄を天下に知らしめるものだった。
室町時代初期の永和4(1378)年6月7日。歳に似合わぬ堂々たる風情の若者が、巡行見物のための桟敷に現れた。3代将軍・足利義満だ。若干21歳だったが、政治的手腕に優れ、室町幕府の権力を固めようとしていた。美しく利発そうな稚児を連れていたのが、人々の目を引いた。稚児は、後の世阿弥。まだ15歳で、「藤若」と名乗っていた。
桟敷が設けられた場所は、「四条東洞院」。南北の通り・東洞院と東西の四条通りが交わる地点。「長刀鉾」が据えられ、当時のルートは、どうだったかは解らないが、今は「前祭」では出発点、「後祭」では終着点となっていて、見物には一等地だ。込み合っていて、とても観覧席など設けられる場所ではない。
この時代、貴族や大名は、祭りや芸能を見物する際、家来に命じて桟敷を設けさせていた。美しい幔幕が張られた中に、棚などの豪華な調度が設えられ、茶道具も持ち込まれた。部屋ごと移動して来たような大掛かりなものだった。義満の桟敷は加賀国の守護・富樫が設営したという記録に残る。どういう設えで、幾ら掛ったかは解らないが、「金閣」の事を考えれば、途方もなく豪華だった事だろう。
桟敷は、今で言う「VIP席」。祭りの「VIP席」は、すでに600年も前からあったのだ。現代の「VIP席」は、豪華さが話題になったが、さすがに義満には敵わないだろう。
(©︎Masayuki Nakamura)
中村雅之(なかむら まさゆき)
1959年、北海道生まれ。法政大学大学院日本史学専攻修士課程修了。横浜能楽堂芸術監督、明治大学大学院兼任講師(アートマネージメント)。能・狂言、琉球芸能を中心に、幅広く伝統芸能のプロデュースを手掛ける。手掛けた公演が、文化庁芸術祭で大賞・優秀賞を受賞。長年にわたる劇場経営・プロデュースの経験を基礎に、芸能社会史の観点から「芸能とお金」の関係について研究する。講演、脚本・演出、作詞、執筆・監修まで、活動は多岐にわたる。
『英訳付き 1冊でわかる日本の古典芸能』(淡交社)、『これで眠くならない!能の名曲60選』、(誠文堂新光社)、『野村萬斎‐なぜ彼は一人勝ちなのか』(新潮社)、『教養としての能楽史』『空白の團十郎-十代目とその家族』(筑摩書房)など著書多数。


