英国ロイヤル・バレエ&オペラinシネマ2024/25の、シーズン最後のオペラ「ワルキューレ」が上演されている。2023年より上演が始まった英国ロイヤル・オペラのアントニオ・パッパーノ(指揮)とバリー・コスキー(演出)による新制作「ニーベルングの指環」四部作の2作目にあたる、単独でも上演される機会の多い人気作だ。焼け野原となり息も絶え絶えの大地で繰り広げられる若者たちの愛、父娘の愛、神に代わる愛が、新解釈の演出で描かれる。
地母神が静かに見つめる荒廃の世
ワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」は「ラインの黄金」「ワルキューレ」「ジークフリート」「神々の黄昏」からなる四部作。ワーグナー自身が26年をかけてつくりあげた大作だ。
英国ロイヤル・オペラはパッパーノとコスキーによる、この大作の新制作を開始しており、2023年に「ラインの黄金」を上演、シネマでも上映された。「ラインの黄金」は世界を支配する力を持つとされる黄金の指環を巡り、神々と人間、地底のニーベルング族が交錯する欲望や裏切り、愛憎が、まるでマフィアの抗争世界を思わせるような容赦ない演出で描かれていた。なにより、老齢の俳優が体当たりで演じる、痩せた大地の象徴である女神エルダがとても印象的。俳優としての出演で歌わずセリフもなく、舞台の片隅から愚かな神々と小人や巨人族の指輪を巡る争いをじっと見据える。彼女が静かに歩き、横切り、佇む姿はそれだけで深い余韻を残し、いつまでも記憶に残るのである。
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![]() ヴォータン(クリストファー・モルトマン)とブリュンヒルデ (エリザベート・ストリード) |
炭化した焦土にそそぐ慈愛の眼差し
続く「ワルキューレ」もまた、その世界観を引き継いでいる。老エルダ(イローナ・リンスウェイト)が登場した瞬間、前作の物語世界をほぼほぼ思い出すくらいに、その存在は強烈だ(もちろん、前作を知らずともこの物語は十分楽しめるし、始まる前に前作の映像も上映され復習ができる)。
舞台は神々や小人や巨人族など、魑魅魍魎が跋扈する世界から人の世へ。コスキーが故郷オーストラリアの山火事の荒廃した風景にインスピレーションを得たという世界は、炭化して焼け焦げたモノクロの世で、ディストピア感満載。そうした世で、DV夫のもとで暮らすジークリンデ(ナタリア・ロマニウ)と、虐げられ世に希望が見いだせないジークムント(スタニスラス・ド・バルベラク)が一目で惹かれ合うのは、抗えない運命すら感じる。荒廃した世にささやかな灯がともり、地母神が色鮮やかな花籠を持ち祝福する。しかし2人は実は生き別れの兄弟で、これは禁断の愛である――という設定は、わかっていてもモヤっとするものをいつも感じはするものの、今作のこのディストピアに生まれたかすかな灯は、何ともいとおしい。互いに魂を捧げ合う本気の愛情を育み生きる2人は、ブリュンヒルデ(エリザベート・ストリード)ではないが、慈愛の眼差しを注がずにはいられないのである。
![]() ジークリンデ(ナタリア・ロマニウ)とジークムント(スタニスラス・ド・バルベラク)、2人をみつめるエルダ(イローナ・リンスウェイト) |
![]() ヴォータンの正妻フリッカ(マリーナ・プルデンスカヤ) |
神の長以上に神であったブリュンヒルデ、厳選の出演者にも注目
神の長ヴォータン(クリストファー・モルトマン)と戦乙女ワルキューレの一人、ブリュンヒルデの父娘の深い愛情もこの作品のみどころのひとつ。コスキーの演出だからなのか、ブリュンヒルデはまるで十代の瑞々しい少女感がある。実は彼女の母親はエルダなのだが、エルダに特別な存在感を与えたこの演出だからこそ、このブリュンヒルデの純粋さは一層輝かしく、神の長といいつつマフィアのボスのようなヴォータン以上に神々しく、とくにジークムントとジークリンデに注ぐ慈悲・慈愛はとても篤い。もしかしたら、それもまたヴォータンの怒りを買った一因なのかもしれないが、ジークムントとブリュンヒルデの対話、ジークリンデの救出、そして炎の中で眠りにつくラストシーンはただただ、引き込まれる。
キャストはパッパーノとコスキーが妥協なく選んだという実力者が並ぶ。とくにジークリンデを演じたロマニウは急遽の代役で、この初役をわずか2カ月で習得したというが、ヴォータンもブリュンヒルデもいない1幕の物語をジークムント役のド・バルベラクとともに紡ぎあげた力量は見事だった。
この「ニーベルングの指環」は今後「ジークフリード」「神々の黄昏」へと続いていくわけだが、すでに神などいないだろう、という世界で今後どう展開していくのか。実に楽しみである。
写真:©2025 Monika Rittershaus
![]() ヴォータンはジークムントを手にかける |
![]() ヴォータンとブリュンヒルデ。クライマックスは必見 |
「ワルキューレ」(全3幕)
音楽・台本:リヒャルト・ワーグナー
指揮:アントニオ・パッパーノ
演出:バリー・コスキー
美術:ルーフス・デイドヴィスス
衣裳:ヴィクトリア・ベーア
照明:アレッサンドロ・カルレッティ
演奏:ロイヤル・オペラ・ハウス管弦楽団
映像監督:ピーター・ジョーンズ
出演:
ヴォータン:クリストファー・モルトマン
ブリュンヒルデ:エリザベート・ストリード
ジークリンデ:ナタリア・ロマニウ
ジークムント:スタニスラス・ド・バルベラク
フンディング:ソロマン・ハワード
フリッカ:マリーナ・プルデンスカヤ
ヘルムヴィーゲ:マイダ・フンデリング
オルトリンデ:ケイティ・ロウ
ゲルヒルデ:リー・ビセット
ヴァルトラウテ:クレア・バーネット=ジョーンズ
ジークルーネ:キャサリン・カービー
ロスヴァイセ:アリソン・ケトルウェル
グリムゲルデ:モニカ=エヴェリン・リーヴ
シュヴェルトライテ:ロンダ・ブラウン
俳優:イローナ・リンスウェイト
上映:2025年9月5日(金)~11日(木)
上映劇場は公式サイトにて。
https://tohotowa.co.jp/roh/movie/?n=die_walkure2024
「ワルキューレ」あらすじ
不幸な結婚をしているジークリンデのもとに、追われて傷だらけの若者、ジークムントが逃げ込んでくる。2人は一目で惹かれ合うが、実はジークムントは彼女の生き別れの双子の兄だった。ジークリンデは夫フンディングに眠り薬を盛り、ジークムントは家にあるトネリコの木に突き刺さった剣を引き抜きともに逃走。兄妹は禁断の愛で結ばれる。これは黄金の指輪を手に入れんとする、神々の長ヴォータンの意図通りであったが、ヴォータンの正妻である結婚の女神フリッカの猛烈な反対に遭い、ヴォータンはフンディングとの決闘に挑むジークムントの命を救うことをあきらめる。戦乙女ワルキューレである愛娘ブリュンヒルデは父の本心を汲みジークムントを救おうとするが、ヴォータンがジークムントに死をもたらす。ブリュンヒルデは子を宿しているジークリンデを逃がすが、ヴォータンは自身の命令に背いたブリュンヒルデを罰し、炎の山で眠りにつかせる。
Art & Travelライター
西尾知子